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カウンセラーの経歴

心理カウンセラー・岩田昌樹の人生

岩田昌樹のこれまでの人生を、まとめてみました。かなり、長文になってしまいましたので、もしご興味がございましたら、カテゴリー別でもご覧いただけますので、よろしくお願いいたします。※現在は「社会人12年目」まで。

幼少期~青年期
大学時代まで
社会人12年目まで

幼少期~青年期

教育熱心な母についていくことに、必死だったからでしょうか。私には、小さい頃の記憶があまりありません。

幼稚園の記憶はほとんどなく、小学校時代の記憶も、遠くかすんで消えてなくなりそうです。

中学・高校時代の記憶も、おそらく普通の人の「1/10」ぐらいではないでしょうか。同級生と話していても、私自身のエピソードでさえ「そんなことがあったんだね~」という感想が、95%占めている状態。これでは、会話の体をなしませんよね。

記憶の消滅具合が激しいので、まるで縄文時代の遺跡の発掘をしているかのよう。ほぼ憶測と妄想の世界で生きています。

~ 遊んだ記憶がない ~

小さい頃は、ほとんど「遊び」というものを、経験してきませんでした。
公園で友だちと遊んでいる記憶が、ほとんどない。「ゲーム」や「漫画」「アニメ」「テレビ」も見た記憶がない。

高校生のとき、週刊少年ジャンプを旅行先で従弟に貸してもらい、人生で初めて読みました。「こんなに面白いものが、世の中にあるんだ!」その時の爽やかな感動は、今でも鮮明に記憶に残っています。

外食の記憶さえありません。そのせいでしょうか。30才ぐらいになってから、ようやくフードチェーン店やコンビニ弁当に、手を出せるようになりました。「食べてはいけないもの」という教育のなごりが、強く残っていたんでしょうね。

思い出すのは、30才のときに初めて、ジョナサンに行ったときのこと。「ファミリーレストランって、こんなに美味しいんだね!」満面の笑みで、幸せを噛みしめるように、当時の彼女にそう伝えました。彼女のなんとも言えない反応を見て、苦笑いってこういう表情のことを言うんだなと、初めて理解できたような気がします。

~ 習い事のオンパレード ~

小学校低学年時代は、習い事のオンパレードだったそうです。

「水泳」「空手」「ピアノ」「英語」「習字」「そろばん」「サッカー」などなど…。毎日忙しくしていたんでしょうね。遊ぶヒマなんてなかったのかもしれません。

後に、母に聞いた話では、水泳で、「強化選手として、チームに入りませんか?」とトレーナーさんに誘われたらしい。でも母は、「中学校受験があるので、辞めさせていただきます!」と言って断ったそうです。

なんでもさせたいことを、素直にしてくれる子だったそうですから…。私の希望は、おそらく聞いてくれていないでしょうね…。母の進ませたい方向に、従う。それしか選択肢がない状態で、当時の私は、必死に我慢してついていったのだと思います。

~ スパルタ塾通いの日々 ~

小学校3~4年ぐらいからでしょうか。塾に連日通うことになりました。かなり厳しい指導と勉強を強いるスパルタ塾だったようです。

小学校の授業に先んじて、塾で教えられていたため、学校の勉強は低レベルだと感じ、バカらしく思っていた記憶があります。完全に「下」に見下していました。次第に、勉強しなくても、自分はできると思い込んでしまうように…。

机に座って勉強をしているフリをしながら、消しゴムを使った野球ごっこのひとり遊びを、ず~っとしていました。それでは、成績が上がるわけないですよね。 今でも座学勉強が大嫌いですが、その頃の「無意味感」から脱け出せていないように思います。

~ 話を聞いてもらえなかった? ~

ずっと「やらされている」生活が続くと、感情や気持ちを抑え込むようになりますよね。記憶は、感情にヒモづいているっていいますしね。

私の気持ちやその日の出来事を聞いてもらうことが、なかったのかもしれません。話さないから、記憶がどんどん奥の方、奥の方へと追いやられていく。

記憶の収納箱にしまったまま、出す作業をしないから、風化して土に埋もれていってしまう。ホコリをかぶって、サビて開かなくなってしまう。そして、忘れ去られていく。

そうやって、記憶がない「からっぽ」の人生ができあがっていったのでしょう。

~ からっぽの人生 ~

「記憶がない」とは、「自分がない」ということ。

誰かと話をしていても、自分のことが話せない。ダメな自分をオープンにして話すのが怖いという気持ちも、もちろんあるけれど、それ以前に「ない」「からっぽ」なんです。話すネタがないんですよね。

記憶がないから、もちろん「感情」もない。「想い」もない。「趣味」もない。「好き」もない。そして、「嫌い」もない。

まるで、ロシア人に囲まれながら、会話?しているかのよう。ロシア語で何をしゃべっているかわからないし、(自分の)言葉さえわからず話せないから、私にできることは、ただ、にこやかに作り笑いをすることだけでした。

~ 人間関係の築き方がわからない ~

友だちと遊んだりすることがない状態で生きていると、どうやって友だちを作ればいいのかわからなくなる。

話すことが怖くなっていく。親密感の怖れどころか、適度な距離の関係さえ作れない。友だちを誘える自信なんて持てるはずがない。

誰かが遊びに誘ってくれたら、そりゃ内心、飛び上がるほど嬉しい。でもなぜか、「嬉しくない」表情をしてしまうんですよね。それは、友だちとの関係をうまく作れない自分を、全否定しているから。

ダメな自分を誰にも見せたくない。「できる自分を、演出しなければ!」というエネルギーが、高速回転で空回りして、結果「嬉しくないよ!」という態度になってしまう。

後から冷静に考えると、なんでそんなわけのわからない行動をしていたんだろう?と理解不能になるぐらい、しっちゃかめっちゃかな反応を繰り返すようになる。

してもらって嬉しい行動を、みんながしてくれればしてくれるほど、本心とは真逆の行動をとることに。そうやって、知らず知らずのうちに、自分を追い込んでいきました。

~ 誤解が誤解を生んでいく ~

自分の本当の気持ちに反して、「ひとりでいたいんだね」という誤解が広まっていく。中学・高校時代はもちろん、社会人になってからも、そんな日々が続きました。

人の輪に加われない自分がイヤで、恥ずかしい存在だと嫌悪する。だから、みんなから逃げるように、全速力でひとり下校する毎日。休み時間は、眠くないのに一生懸命寝ているフリをしていました。

大学時代まで

~ 記憶の刻印を押そうと、必死にもがいていた ~

からっぽの人生に「記憶の刻印」を押そうと、一生懸命に孤軍奮闘していました。

記憶は、自分ひとりの力で定着させられるものではなく、コミュニケーションやアウトプットしていく中で、定着していくものなのかもしれないと、私は感じています。

でも、コミュニケーションやアウトプットを怖れていた私。だから、自分ひとりの力でもできる「記憶の刻印」を押そうと、日々もがいていたように思います。

~ 中・高時代の悪あがき ~

みじめで、からっぽな自分を、すこしでも大きく見せたい。背伸びして、みんなに追いつく方法を、1人で探していたのでしょう。

中学校の頃から、タバコをふかし、お酒を浴びるように飲み、記憶をなくして、遠くの駅で目覚めることもしばしば。高校時代は、バイトに明け暮れながら、中型バイクとスポーツカーを買って、乗り回しているフリをする私。

でも「好き」「楽しい」「嬉しい」という感情がそこにはないから、全然、楽しくない。のめり込めない。している意味さえわからない。

からっぽの空間を埋めるために、「何かをしなきゃ!」と、いつも焦っていました。

お酒の席では、人の輪に入れない怖れや不安を消すために、大量のお酒を浴びるように飲む。怖れや不安が消える前に、先に記憶をなくしてダウンしてしまうという、傍からみると自暴自棄な飲み方もよくしていました。

「バイク乗ってるよ!」とは言えるけれど、バイクの良さはまったく語れない。ひと言で終わってしまう薄っぺらい表面的な人生しか、どんなにあがいても、わたしには作れませんでした。

「記憶の刻印」が押されるのは、あくまで表紙だけ。「何かをした」という表面だけ変えても、中身は「からっぽ」のまま。語れる「わたし」はいつも、そこにはいませんでした。

~ 大学時代の悪あがき ~

大学生になると、さらに焦りが加速。「時間がもったいない!」「何かをしなければ!」という強迫観念に襲われるように。

栄養ドリンク片手に、週に5時間睡眠という、今から考えると恐ろしい日々を送りはじめる。頭が朦朧となりながらも、深夜バイトに明け暮れていました。

バックパッカーでアジア各地を放浪し、ついには、突然「NHKの記者になりたい!なぜなら、夜討ち朝駆けが当たり前の、超ハードワークだから!」という自滅的な発想で、就職留年を決定。

就職留年中は、孤独にひとりきりで、勉強?に明け暮れていたため、2頭身ぐらいの頭でっかちな超論理的思考人間になる。現実を知りもしないのに、新聞だけで得た浅い知識をもっともらしく語り尽す、いけ好かない人物が出来上がっていました。

そのころの私は、誇大妄想人間。若いころは、少なからずみんなそうかもしれませんが、「オレが世界を変える!」「オレがヒーローだ!」そんなぶっ飛んだ妄想に侵される人間でした。それだけ、「からっぽ」の人生を埋めることに、とにかく必死だったんです。

~ 母との関係性 ~

母は、愛情をたくさん持っていたと思うし、いい人だとも思います。ただ「極端」なんですよね。そして予想がつきにくい…。どんな反応が返ってくるのか、ビクビクしてしまうんです。

母も私と同じように、人との距離感を上手に取ることが下手なんだと思います。一気に押し寄せて、一気に立ち去っていく感じ。

自分が「これがしたい!」と思ったことは、周囲の声を聞く耳を持たず、ブルドーザーのように突き進んでいく。一方で、それ以外のことは「どうでもいい」というか、距離を置こうとするんです。

私がちょっととしたことをお願いしても、ビックリするぐらい拒絶されてしまうことが多いんですよね。その拒絶の激しさは、商店街のシャッターを目の前で降ろされるような感じ。

先日「あなたの中学校受験で、私の役目はもう終わったの」と悪気なく、ハッキリとした口調で言っていました。中・高・大の一貫校だったからでしょうね。

中学校受験までは、猛烈な勢いで私を振り回し、それ以降は、一転、放任主義でした。自由にさせてくれたといえば、聞こえはいいけれど…。冷たく感じるときがありましたね。

~ 向き合ってほしかったな… ~

人のことは言えないけれど…、もうちょっとバランスの良さが欲しかったな…。親として、「教育」や「お金」はしっかりとサポートしてくれて、私は恵まれていたと思います。

でも、「向き合ってもらえた」記憶がないんですよね。「わかってもらえた」記憶もない…。子供の立場からすると、愛情が伝わってきづらいタイプの母でした。

社会人12年目まで

~こんな私を受け入れてくれた会社~

爆発的にあふれ出てくる自らのエネルギーを、上手に制御できない人間が、超優良企業NHKに受け入れてもらえるはずがありません。あっけないほど簡単に、不合格のお達しを頂きました。

でも、不思議ですよね。こんな私でも受け入れてくれる会社が現れるんです。就職留年していた理由はおろか、大学名、経歴もほとんど聞かれない採用方法に、私は救われました。

~ 溜まったマグマがついに爆発 ~

「仕事をガムシャラにしたい!」

溜まりに溜まったマグマが、ついに爆発してしまいました。「会社に泊まってるの?」と冗談で言われるぐらい、夜遅くまで働き、早朝から出社する毎日でした。

カタログ通販のバイヤーをしていた私。毎号前年比120%は当たり前。それでは飽き足らず、もっと仕事が「欲しい!」「欲しい!」と上司に直談判。他の人の1.5倍ぐらいの業務量を抱えながら、売上をグイグイと伸ばしていきました。

とにかく、圧倒的な何かを残して、みんなに認めてもらわないとダメだ!と、焦りに焦っていた。なにかに憑りつかれたように生きていました。

~ 権威との葛藤 ~

「すべて自分の思い通りにするんだ!」

生意気な小僧である私は、1人わめき散らしていました。新入社員の分際で、上司がひと言発するたびに、「うるさい!数字を残せばいいんでしょ!」とは、さすがに言えませんが…、それぐらいの態度で、歯向かっていく。

小さい頃、母にコントロールされていた苦い記憶が、無意識に蘇ってきたのかもしれません。あるいは、大手商社に勤務し、一般的にはエリートと呼ばれる層だった父への反抗心が、上司に乗り移っていたのかもしれません。父は、知識量と頭の回転の速さで相手を圧倒するようなところがありましたので。

権威に対しての嫌悪感が、とにかくすごかった。上から押しつけられ、コントロールされることに対しての拒絶反応が、度を越していたように思います。

~ エネルギーが爆発する ~

「若さ」=「エネルギー」

若さの特権である、あふれんばかりのエネルギーを、上手に放出できていれば、人間関係にも、仕事にも、支障はきたさない。むしろ、好循環を生み出しますよね。

でも、私のように、エネルギーを抑え込んでいく方向に向かえば、ペチャンコになって、一見なくなったかのように見えてしまいます。

でも、じつは溜まりに溜まっているだけ。いつしか耐えきれなくなって、破裂したり、不具合が出てきてしまうものですよね。

~ 多面体のサイコロのようにはなれない私 ~

それはまるで、鋼板のプレス加工のよう。

強力な圧力で押さえつけられると、鋼の塊が、平面的な一枚の硬い硬い「板」になる。板には、「表」と「裏」しかない。つまり、「いいか」「悪いか」しかなくなってしまうものです。

強固で、頑なで、柔軟性がなくなってしまう。ちょうどいいバランスがわからなくなってくるんです。

人間関係をうまく作っていくためには、「平面体」ではなく、中に空気を送り込んでふくらませ、「立体的」な人間になる必要がありますよね。

田坂広志さんがおっしゃる「多重人格」ではないけれど、多面体のサイコロのように、いろんな一面を持った自分を、人・場面・時期に合わせて使い分けていく器用さが大事なのでしょう。

「真面目」な一面を見せる時
「ちょっといいかげん」な一面を見せる時
「かなり、なまけもの」な一面を見せる時
「所々、しっかり者」の一面を見せる時
いろんな自分を許容して、使い分けていくことが大事ですよね。

~ 白黒思考人間 ~

私は、かなり抑圧していたのでしょう。絵にかいたように「いいか」「悪いか」の両極端な2面しか許せない人間でした。

95点でも「全然ダメ」。85点だと「絶望の極み」。75点だと「もうこの世の終わり」。100点なんて取れるわけがないので、ずっとダメだ!ダメだ!と自分に言い聞かせていました。

それは、自分に厳しいというより、「みんなに認めてほしい」依存心と自己否定と承認欲求の塊からくるもの。「すごい!」と世の中すべての人に言ってほしかったんですよね。

~ 完璧主義はポーズ ~

でも、認めてもらっても、猛烈に拒絶をする「受け取らない」人間だから、承認欲求が満たされることはないんです。「何も言わなくても、わかってくれるよね」と間接的に、要求だけを繰り返していました。

だから完璧主義は、依存心を隠すための「ポーズ」だったんです。その「ポーズ」は、徐々に深刻の度合いを深めていきます。

会社の自己評価シートでは、到底達成できない目標をあえて立てる。たとえ95点取れたとしても、つける自己評価は「最低評価」。

本当に、めんどくさい人間でした。

~ 依存心を隠すために、自立的な仕事をするけれど… ~

母に頼れなかったからでしょうね。

誰かに頼りたい、依存したいという気持ちが解消されずに、どんどんと膨れ上がっていく。でも、そんな依存的で弱い自分を「誰にも見せたくない!」と、仕事で超自立的な振る舞いをするようになる。

でも…、当然ですが、自立的な振る舞いをすればするほど、満たされない依存心がさらに膨らんでしまうんですよね。

悪循環ですよね。頑張れば頑張るほど、満たされない。なぜ頑張っているのかわからなくなる。もう、疲れ果ててしまうんです。

依存できる相手がプライベートでいれば良かったけれど、そんなに都合よくはいかないものです。だから私生活は、「無気力」そのものでした。

  • 歯を磨くのがめんどくさくて、虫歯だらけ…
  • 虫歯がどんなに痛くても、めんどくさいので歯医者に行かない…
  • 高い買い物を繰り返し、借金地獄になる…
  • 電気料金の支払いは、手続きがめんどくさくて、いつも延滞状態…
  • シャワーに入るのも、めんどくさい…
  • 掃除なんて、もっとイヤ…
  • 休日は、何もする気が起きない…

自堕落な生活の極みでした。

~ 超自立的な仕事の仕方 ~

「誰かの2番煎じはイヤだ!」

自分でゼロから作り直すからと、仕事の引き継ぎがあっても、拒絶してしまう私。誰かに頼ることが、とにかく苦手。全部、自分でやらないと気が済みませんでした。

こんなにも扱いにくくて、めんどくさい私が、人間関係を上手に築くことなんて、普通はできないですよね。

でも、本当にいい会社だったんです。こんな私でさえ、暖かく受け入れてくれる懐の深さがありました。

~ 躊躇なく、シャットダウン! ~

32才のときと、35才のとき。左遷を経験します。

誰が見ても驚きの売上数字を残している中、突然の異動通知。依存心から、突き動かされるように猛烈に仕事をしていた私は、全否定されたと受け止め、絶望の渦へと入りこんでいきます。

全否定されたら、完全に断ち切るしかない。白黒思考の決まり文句である「シャットダウン!」を実行することに、躊躇はありませんでした。

32才の左遷のときは、次の会社に行く当てもない状態で、すぐに退職届を提出しました。

~ ありがたい説得 ~

数年前から、私のことを気にかけてくれていた本部長と先輩が、必死に、何度も何度も引き止めてくれました。それでも、頑なに撤回はしない私。ついに、同期に「さよなら会」を催してもらう段階までになりました。

その「さよなら会」の翌日のことでした。突然、夜、本部長に酒の席に呼び出され、社長と役員と本部長の3人に囲まれて、説得してくださったんです。

わざわざ、そんな席を設けていただいたのは、先輩が長文のメールで、社長に直談判してくれたことも大きかったそうです。

~ 人との出会いが、なにかを変えてくれた ~

初めてお酒の席で一緒になったのは、27才ぐらいのときでしょうか。強烈な権威との葛藤があった私に対して、その本部長は、とても親身に、とても暖かく、とても可愛がってくれました。

月に数回は飲みに誘ってくれて、ふたりで語り合うこともしばしば。口数は少ないけれど、そっと見守ってくれている。そんな感じの方でした。

頑なだった、私の心の鎧を溶かしてくれるには、充分すぎる「暖かい」存在でした。

~ 習慣が、自信をつくる ~

本部長との出会いがあってからでしょうか。日々の習慣を大切にするようになりました。

朝、起きてから2時間のルーティンを、毎日繰り返す。水を飲むところから始まり、窓を開けて外を見て、ヨガをして、コーヒーを抽出して…などなど。

1つ1つはたいした内容ではないけれど、「やる気」ではなく「時間」をスイッチにして、毎日、自分の生活をコントロールしていく。

寝る時間も、起きる時間も、土日関係なく、ルーティンをしっかり守る。続けていると、どこからともなく、自信がわいてきたんです。

~ 体をコントロールしていく ~

それまでの自分は、人をコントロールして、自分の世界を変えようとしていました。ですが次第に、コントロールの対象が、少しずつ変わっていきました。

自分の「体」をコントロールしていく。「思考」ではなく、あくまで「体」。ルーティンは「思考」を使わず、「自然と」「いつのまにか」「当たり前に」することが大切ですよね。

「体」のリズムが整ってくると、「心」が安定してくるんですよね。

少しずつ、わたしの敷地が出来上がっていく感じ。自分の足場ができて安定してくると、人の敷地に侵入しようと思わなくなってくるんですよね。

それまで、人との境界線を引こうとしても、うまくいかなかったんです、そもそも、わたしの敷地がないから、気づかぬうちに、不法侵入を繰り返してしまうんですよね。

まずは、自分の人生を、自分でコントロールできている感覚が大事なのでしょうね。その感覚を得るためには、「習慣」が心強い味方になってくれました。

~ それでも、依存心がなくならなかった ~

「人の支え」と「習慣」が、依存心と権威との葛藤をかなり和らげてくれました。でも、そんな簡単になくなるものではないですよね。

本部長はじめ、支えてくれた方々の気持ちに応えなければと、今まで以上に、仕事に打ち込むようになりました。

月の休みは、1~2日。テレビ番組を作っていたので、週1回はディレクターと、夕方~次の日の朝まで編集作業。スケジュール帳には、予定がギッシリと詰まっていました。

~ 起こるべきして起こった事件 ~

そんなある日、事件が起こりました。

可愛がってくれていた本部長が異動になり、新しい本部長が就任した次の日に、私の担当を外す人事が、突如言い渡されました。

当時、私は社内で目立っていたんだと思います。数年後に知った話ですが、生意気な新入社員時代に一緒だった先輩が、私の良くないウワサを周囲に伝えていたそうです。

その先輩のことは責められません。言われて当然の行動を、私がしていたのですから。

そのウワサを耳にしていた新しい本部長が、私に良い印象を持つはずがありませんよね。だから、外すことにしたのでしょう。

自業自得なんです。自分が犯した過ちが、巡り巡って、自分を苦しめるんですよね。

そんな背景があったことを、当時の私は知りませんでした。いつものように、全否定されたと大きなショックを受けた私。

その日にあったテレビ収録は、ほとんど廃人状態。抜け殻のようでした。収録本数も多く、かなり忙しく動かなければいけないはずなのに、考える気力もなく、ボーっと一日を過ごしてしまいました。

私がしっかりしていれば、防げた事故でした。その日に収録した私の担当商品で、大きな放送事故が起きてしまいました。

景品表示法に問われる内容でした。会社全体を揺るがす問題となりました。私は担当を外れ、社内処分を受け、事務仕事に回りました。

~ 起業を決意 ~

それから、1年ぐらいでしょうか。なぜ、こういうことが起こってしまったのか、ずっと考えていました。

出た結論は、「いつも、誰かのせいにしている自分がいるから」。誰かに依存しているから、何か事件があるたびに、大きなショックを受けすぎてしまうんですよね。

自分自身の責任を痛感していました。だから、冷静に原因を考えられたのでしょうね。

だから、落ち込むことはなかったんですよ。なぜか、心はスッキリしていたんです。自分の依存心を素直に認めて、受け入れることができたからかもしれません。

会社員として仕事をしている限り、今の弱い私では、他責的な考えを、また繰り返してしまう怖れがある。自分を変えるためには、会社員を辞める必要がある。

すべて自己責任だと思えるように、起業するべきだと決意しました。