身近な存在である夫のことでさえ、いや、身近な存在だからこそ信用することができない…。
で、頭の中があふれかえっているときは気づかなかった。だけど、すこし冷静になったときに、ふと気づくことがあるんですよね。どこか懐かしさを抱いてしまう感情であることを。私は、夫だけではなく、人を誰も信用できないトラウマを抱えているのかも…と。
小さい頃からずっと抱いていた感覚・感情が、
目の前で起こっている出来事は、キッカケでしかないのかも…。心の奥底で眠っていた「人を誰も信用できない」という感情が、刺激されただけ。
あふれ出てきた感情とともに、蘇ってきた記憶には、父と母の姿があるということも珍しくないものです。
遠い過去からずっと抱えつづけている感情を、今さらどのように癒していけばいいのか。そして、人を信用して、いい人間関係を築けるようになるためにはどうすればいいのか。果てしない悩みに、
を進んでいるようで、苦しくなってしまい、いつしか、先が見えないトンネルに迷い込んでしまった自分を責めてしまうことも多いように思います。
今回は、人を誰も信用できないトラウマから抜け出す方法を、心理カウンセラー・岩田昌樹がお届けしたいと思います。テーマは「太陽の光を感じるためには」です。よろしくお願いします。
\動画でもご覧いただけます!/
こんにちは。Nと申します。
夫との関係について相談させてください。
5年前くらいのことですが、夫が出会い系で遊んでいたことがありました。ものすごくショックでその時は怒りしかなかったのですが、そこから自分のそれまでの生き方や私の夫に対する態度を振り返ったり、心理のことを勉強することで、だいぶその出来事に対してや夫への執着を手放せたなという思いがあります。
ですが、ここ最近、かさぶたが外れたかのように夫への不信感がものすごくあふれて、夫を問い詰めてしまいました。
というのも、夫がキャバクラに行ったことがきっかけで、それから夜遅く飲み会で帰るたびに不信感が再燃し、ついに夫のパソコンを見てしまい、ナンパの方法やら女の子の動画を見ていたことを知ってしまいました。「また遊んでるのでは?」という考えが拭えず、キャバに行ったこと、動画を見ていたことを責めました。
今は「やってしまった、、、」という自分を責める気持ちでいっぱいで苦しいです。というのも、夫はもう遊ばない、私は夫のプライベートなものを見ないと約束したからです。
結果として何も遊んでいないことがわかったので、余計に自分で問題を起こしたことに対するショックがあります。
またキャバクラも動画も嫌ですけど、自己肯定感が高い状態なら、「ふーん」と冷静に見れるんだろうに、それがまだできない自分を責めてます。
早く過去の出来事から立ち直らなければ!という気持ちがあり、見て見ぬふりしてきた辛かった気持ちや「傷つくのが怖い」がという感情が爆発してしまったのなというふうにも思っています。
「もう傷つきたくない」という思いもものすごくあります。「傷つきたくない」というのは夫は関係なく私の問題であるということも分かってるつもりだったんですけど、、。
そもそも人に対して「信頼できない」という思いがずっとありました。父は怒る人、母は弱くて守ってくれない人というイメージでした。
ここ数年カウンセリングも受けたり、ずっと向き合ってきて行動も起こしてきて、過去に比べればだいぶ成長したなと思うのですが、ここに来て、自己肯定感と自己信頼が急激に右肩下がりになった感じです。
今回の件でやっぱり夫のことが大事なんだなと気付きました。私は夫とよい関係を築きたいです。何があっても自分は大丈夫!ってどうやったら思えるようになるんでしょうか。
こんな私にアドバイスいただけたら嬉しいです。
【ご相談者様名:N様】
『N』さん、ご相談いただきありがとうございます。心理カウンセラーの岩田昌樹と申します。
一度トラウマになってしまいそうな、ものすごくショックな出来事を経験すると、簡単にはご主人を信用できなくなってしまいますよね。そのような状況の中でも、ご自身の生き方やご主人への態度を振り返って、見つめ直し、
ことだと思います。
ただ最近、かさぶたが剥がれたかのように、再び不信感があふれてきてしまったということは、自分を見つめ直して手放せた部分もたくさんあった一方で、
が少なからず残っていたということなのでしょうね。
でも、それは仕方がないことです。
のが、人の成長ですよね。2歩下がってしまったことを意識するのではなく、下がっても1歩前に進んでいることを意識的に見ていく必要がありますよね。歯がゆいですが、現実はそういうものです。
さて、ご主人がキャバクラに行ったというキッカケがあったとはいえ、それはあくまでキッカケにすぎないのかもしれませんね。
今までずっと、人に傷つけられる「怖さ」が、心の奥底で「ドクンッ!ドクンッ!」と脈打ち続けていたのでしょう。ご主人のキャバクラという地殻変動が起こったことで、亀裂が入り、
してきたんですね。
そうですよね。「人を誰も信用できない」「もう傷つきたくない」そんな怖さは、誰も私のことを守ってくれる人がいないという幼少期の感情・経験からくることが、やはり多いですよね。では、その怖さをどのように解消していけばいいのでしょうか。
人を誰も信用できない「怖さ」は、夜に真っ暗闇の森林の中を、
そんな状態だと、私はイメージしています。
暗闇の中で、周りがよく見えない中で進むのですから、それは怖いですよね。いつ獣が襲ってくるかわかりませんから、物音にも敏感になります。懐中電灯が照らす光は、一直線です。一部分しか明るくなりません。つまり、
わけです。
懐中電灯片手に真夜中を歩いていると、どうしても足元を照らして、下を向いて道を確認しながら歩いてしまいますよね。まずは何より足元です。周りを照らしている余裕なんてありません。ずっと
歩くものですよね。そんなときに
どうなるでしょうか。暗闇の中で見る人の表情は、いくら笑顔だったとしても、怖く感じるものです。ビックリして身構えて、攻撃したり、逃げてしまったりするものです。敵に見えてしまうんですよね。
一方で、真夜中ではなく昼間に歩いていれば、もちろん懐中電灯はいりませんよね。明るくて温かい太陽が、視界全体を照らしてくれていますからね。もちろん、けもの道を歩いている以上、多少の怖さはあるとは思いますが、真夜中ほどではありません。
足元も視界に入れながらも、視線は道の先だったり、周りの様子だったりします。景色が良い場所では、立ち止まって
さえ出てくるでしょう。空を見上げながら、天気のうつり変わりを確認したり、小動物や小鳥の声を楽しんだり、小川で水を飲んだりすることだってできるでしょう。
「足元=身近な人」を視界に入れながらも、外の様子を見ているんですよね。太陽という安全安心の存在が担保されているから、外を見る余裕が生まれるんですよね。
そして、そこに人が現れたとしたらどうでしょうか。突然であればもちろんビックリするとは思いますが、暗闇の中で見た表情ほどの
です。もしかしたら、「助けてくれるかもしれない」という期待さえ抱いてしまうのではないでしょうか。
真夜中と昼間の違いは、
その違いだけです。それ以外は基本的には変わりがないですよね。
そういう意味では、明るくて温かい太陽のような存在を、「N」さんは感じにくかったのかもしれませんね。お父様は怒る人、お母様は弱くて守ってくれない人というイメージであれば、明るく照らしてくれる存在だとはなかなか思えないものですよね。
では、昼間を歩く人生に変えていくためにはどうすればいいのでしょうか。もちろん、明るくて温かい太陽のような存在を探すことが一番だと思いますし、そういう心理的なアプローチもあります。
そして、自分が自分自身のことを
と否定的に感じていると、それが世界に投影・反映されて、みんなのことを「太陽のような存在ではない」「信用できない」と思うようになりやすいんですよね。真夜中の人生を歩いているように感じてしまうわけです。
真夜中を歩いている人生を、昼に変えていくためには、自分のことを「みんなに貢献できる存在だ」と認めてあげることが、一番の王道の方法ではあります。そうして、自分自身を信じることは、とても有効なアプローチだと私も思っています。
ただ、その一方で、長年続けてきた考え方を変えていくことは、なかなかそう簡単にはできないものですよね。
ですので、私は考え方を変えていくご提案よりも、ひとつの行動をしつづけていると、その考え方を「いつのまにか、しなくなっているな…」と、後から気づくような
をするように心掛けています。
行動のご提案は、ご相談者様の日常生活や考え方を深く知って、ある意味オリジナル的にご提案することが多いのですが、今回は、視野を広くするというアプローチから、一般論としてご提案してみたいと思います。
真夜中を恐る恐る歩いているときに、まずするべきことは、
ことです。視線を上げて、ゆっくり落ち着いて周りを見渡していると、暗闇に
ものですよね。目が慣れてくると、真っ暗で何も見えないと思っていた森林の姿が、すこしずつ浮かび上がってきます。無表情で怖いと感じていた風景を
と、そこには様々な表情があることがわかってきます。木々が鬱蒼と生い茂っている場所。高台になってそうな場所。あるいは、すこし低地になっていて、少しだけ明るく感じる場所。なんとなく、その方向に進むと良いことがありそうな予感がする場所などです。
視界が広がってくると、ふと気づくことがあります。遠い夜空の向こうから、その存在をアピールするかのように「明るさ」を使って呼びかけてくる、
なぜ今まで気づかなかったのだろうと、不思議に感じるほどかもしれません。真夜中は、実は真っ暗ではないということを知るんです。
月と星たちの想像以上の明るさに、想いを馳せることもあるでしょう。考えようによっては、もしかしたら真夜中にも、
のかもしれません。月のチカラを借りて(太陽の光が反射して)、太陽の光が直接届かない地球の「裏側」も、精一杯明るくして、見守ろうとしてくれているのかもしれません。
当たり前の話ですが、太陽はいなくなったわけじゃないです。ただ、裏側に隠れているだけなんですよね。私たちは、明るくて温かい太陽がいないと勘違いしてしまいやすいのかもしれませんね。
そういう意味では、月は「太陽の分身」とも呼べるのかもしれません。
日常の中で、私たちは思っている以上に、
ことが多いのではないでしょうか。考えに集中していると、周囲で何が起きているのか気づくことさえできないものです。それは、真夜中の人生を歩いているのと同じですよね。
最寄りの駅まで歩いているときに、考え事をしていると、気づくといつのまにか電車の中にいた…。なんていうことはありませんか?どうやって歩いてきて、どうやって乗ったのか、まったく記憶がないという経験は、誰にでもありますよね。
それは、家の中でも、仕事中でも、日常の買い物中でも同じことです。真夜中を歩いている人生とは、
とも言えるのかもしれません。気づいていない人生とも言えますよね。
知らなくても、人生に大きな支障がないことばかりですよね。でも、ある意味、
かもしれません。そこに意味を見い出そうとする効率的な思考こそが、視野を狭めることにつながりますからね。
自分の世界に閉じこもりがちだなと思われる方は、とにかく、
ことをしてみませんか?
気づくといつのまにか、世界が明るくなり、世界が広がり、そして、世界を信用できるようになっていくと、私は思いますよ。
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こちらで掲載させていただいている事例は、
参考例でございます。
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